今山の戦い(いまやまのたたかい)は元亀元年4月(1570年3月)から始まった大友宗麟軍と龍造寺隆信軍との戦いである。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦を指して「今山合戦」としている場合もある。
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今山の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1570年3月
場所:
結果:龍造寺軍の勝利
交戦勢力
大友軍 龍造寺軍
指揮官
大友宗麟
大友親貞 龍造寺隆信
鍋島直茂
戦力
60,000 5,000
損害
2,000以上 -
発端
元亀元年(1570年)3月、大友宗麟は当時、肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために、弟の大友親貞を総大将とした60000の大軍を龍造寺領に送り込んだ。対する龍造寺隆信は5000の兵力しか集められず、佐嘉(のちの佐賀)城に立て籠もるしかなかった。このときの大友軍が如何に大軍であったかということを、『肥陽軍記』では次のように記している。
「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」
戦いの経緯
大友軍は圧倒的兵力を背景にして、遮二無二に佐嘉城を攻め立てた。しかし龍造寺軍の士気は高く、大友軍は佐嘉城を落とすことはできなかった。しかし龍造寺軍には援軍の見込みが無く、このままいけば落城は必至の状況であった。
一方、筑後の高良山に布陣していた大友宗麟は、いつまでたっても勝報が届かないことに業を煮やし、援兵を送って親貞に総攻撃命令を下した。親貞は、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定した。ところが、総攻撃開始予定日の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。
これを知った龍造寺氏の武将・鍋島直茂(当時の名は信生)は、今山の敵本陣に対して夜襲をかけることを隆信に進言する。隆信もこれを認め、直茂をはじめとする奇襲部隊は城を抜け出し、今山の敵本陣の背後に近づいた。そして8月20日早朝、今山の大友軍本陣は鍋島直茂率いる奇襲部隊に襲われ、総大将の大友親貞はこの乱戦の最中に討死してしまった。これにより大友親貞軍は総崩れとなり、今山の戦いは龍造寺軍の勝利に終わったのである。このとき、大友軍の死者は2000人以上に及んだという。
戦いにおける影響
この今山の戦いは局地戦であり、大友軍にとってはそこまでの敗北ではなかったとされる。実際大友本軍は健在で、この後龍造寺側から講和の申し入れがあり、それを受諾して撤退したのである。この後龍造寺隆信は、この今山の戦いで叛旗を翻した肥前国内の豪族を討伐して、その勢力を大きく拡大した。やがて大友宗麟や島津義久と並ぶ『九州三強』の一人にまで数えられるようになる。
布部山の戦い(ふべやまのたたかい)とは、1570年(元亀元年)に山中鹿介率いる尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利家との間に起こった戦いである。
戦いまでの経緯
布部山の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1570年
場所:布部山
結果:毛利軍の勝利、尼子再興軍出雲より撤兵
交戦勢力
毛利軍 尼子旧臣軍
指揮官
毛利輝元
吉川元春
小早川隆景 尼子勝久
山中幸盛
立原久綱
戦力
約1万3千 約6千800
損害
‐ ‐
1566年永禄9年11月28日に月山富田城が開城し、尼子家が滅びた後、尼子家家臣である山中鹿介・立原久綱達が尼子家再興を目指すため、1568年、京都・東福寺に逃れていた新宮党の尼子誠久の子である尼子勝久を還俗させ、擁立した。 翌年、但馬、隠岐を経て出雲に上陸した後、尼子再興の伝令を発すると、5日後には尼子勝久の元に尼子家旧家臣、3000の軍勢が集まった。
最初に新山城を陥落させ、出雲の旧領をほぼ制圧し、破竹の勢いで月山富田城に向かったが、守兵300であるにも関わらず天野隆重が守る難攻不落の険城をなかなか落とすことができなかった。隠岐為清の反乱等も重なり手をこまねいていた所へ、伊予・北九州へ出兵していた毛利家主力が戻り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景以下、13000の大軍は石見から出雲を目指した。これを知った尼子勢は毛利勢を食い止める為、末次城に尼子勝久を残して石見路から月山富田城に行く際に通る布部山で毛利を食い止める事とした。
戦い
尼子勢は布部山の2つしかない登り口(水谷口・中山口)に山中鹿介を大将とする総勢6800の兵を布陣し、万全の体制で毛利軍を待ち構えた。戦いは当初地の利に勝る尼子勢が優勢だったが、攻め落とすのが難しいと判断した吉川元春が住民に間道を教えてもらい、別働隊を率いて裏から布部山の頂上に登りそこから尼子軍の本陣を強襲したところ尼子勢は総崩れとなり本拠地真山城へと撤兵した。
その後も毛利軍の猛追もあり再興軍側の米原綱寛立て篭る高瀬城を攻めるも、毛利元就の容態が急変し一時出雲より撤兵する。これにより再興軍は一時末次城を攻める等するも、ほどなく吉川元春率いる吉川軍の攻撃を受け真山城が落城。海路を使い勝久は近臣により脱出、再興軍は出雲より駆逐された。