2009年06月30日

中華人民共和国での思想統制は建国前後にすでに

中華人民共和国での思想統制は建国前後にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。
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1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議(中共8期11中全会)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組が取って代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

2009年06月12日

患者が寝椅子などに横たわり、リラックスした状態で

患者が寝椅子などに横たわり、リラックスした状態で、何気なく心に浮かんできたあらゆることを言語化して語るように要求されるという方法の事。たとえば、窓の外の雲から空を連想し、空から水色が浮かび、といった連想を、患者が治療者に語るもの。
このような方法により、過去に抑圧された無意識の内容が表出され、現在の症状が解消するというのが、フロイトの考え方である。フロイトは当初、無意識を意識化する方法として、催眠を取り入れていたが、催眠の効果には個人差が大きく、またいったん症状が消失しても、後に再びもとの状態に戻ってしまうことを経験したので、フロイトは自由連想法を考案した。現在の精神分析では、対面による対話においても自由連想法と類似の効果があると考えられるようになったため、寝椅子を用いた自由連想法が使われることは少なくなっている。

精神分析的治療においては、抑圧された葛藤に対する解釈を行い洞察が得られた後にも、なお解釈に対抗する抵抗が反復して現れる。その抵抗を克服し完全な洞察に至るために、解釈と洞察を徹底的に繰り返して抵抗を一つ一つ排除していく過程のことを徹底操作という。徹底操作の目標は、洞察を一層効果的にすることであり、クライエントの本能衝動の形と目標を変えることによって、クライエントにとっても意味深い永続的な変化をもたらすことである。徹底操作は分析過程において最も重要な部分の一つで、クライエント自身の自己分析が主体となる。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

クライアントに自らを語らせ、治療者はただそれを誠実に聴くことに徹する。これによって、それを行なう前にクライアントが持っていた症状が取り除かれていくことから、フロイトは除反応(Abreaktion)と呼んだ。自由連想法の発展したかたちとも理解され、お話し療法とも呼んだ。フロイトと同時代では、非常に似た方法をブロイアー(Josef Breuer)が用いてカタルシス療法と呼んでいる。
一見、「話を聞いてやる」というのは極めて原初的な施術であり、それゆえに「あれは医療ではない」と批判する専門家も多い。しかし、近年PTSDやASDの治療として、新薬の投与などよりも効果があるとして再評価が高まっており、ナラティブセラピーとして体系化されたりしている。

2009年06月08日

国定教科書(こくていきょうかしょ)とは

国定教科書(こくていきょうかしょ)とは、教科用図書の編集・発行などに権限を国が有する制度のことである。

日本においては、明治時代の初期に義務教育制度が始まった頃は、検定済教科書が用いられていた。しかし、教科書疑獄事件の発生を受けて、国定教科書に改められた。

以下、山住正己著『教科書』(岩波新書)より、明治期の教科書制度の変遷を振り返る。

1872(M5) 学制公布。 (教科書自由発行・自由採択制)
1880 (使用禁止書目の発表)
1881 (開申制・採択教科書を監督官庁に報告すればよい)
1883 (認可制・採択してよいかどうか、許可を受ける必要あり)
1886 (検定制)
1903(M36)?1945(S20) (国定制)
教科書に対する国家統制は、自由民権運動の高揚と、それに対抗するような教育政策の反動化、という形で進行した。 「開申制」の次の「認可制」は、時間がかかり授業に差し支えて不便、という声をもとに、「検定制」に切り替えられた。 数年後、教科書会社と採択側の教育関係者との間で、贈収賄が行われているとして、30数県157人が検挙されるという 大事件(教科書疑獄)が発生した。 国はそれを機会に、教科書を「国定制」に切り替えた。

戦後は、「文部省検定済教科書」を基本とし、文部省検定済教科書の発行が困難である場合に「文部省著作教科書」が発行されるという状況となった。現在でも一部の教科用図書において「文部科学省著作教科書」があるが、これが国定教科書に該当するかどうかは見解が分かれている。

第二次世界大戦降伏前の日本、現在の大韓民国(韓国)[1]や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、国定教科書の制度を採用している。

ちなみに「中華人民共和国は国定教科書制度である」という意見がしばしば見られるが、すでに1980年代後半から教科用図書を多様化する改革が行われ、現在では教科用図書検定制度を導入している。[2]

国定教科書の制度はすべての学校における学習者に対して同一教材を配布することをなど目的としているが、教科用図書に関して決定を行う行政機関の意志が反映され、それが、教科「社会」、特に歴史教育に現れると極端なナショナリズムの増長に繋がり易いといわれている。その結果、自由な歴史研究や議論を封殺し偏った歴史観を学習してしまうおそれも可能性も指摘されている。

国定教科書を採用している国は「学問の自由が制限される傾向がある」ともいえる。反面、学校ごとの教育内容の差異を最小限に抑えることができ、入学者選抜における学力検査の際にも「どこまで学べばよいか」という明確な基準があるため、受験生の負担が減るなどの利点もある。以上より、一概に国定・検定・認定・認可・完全自由採択その他の優劣を判断することは難しい。

教科用図書検定の制度が「記述の誤りを正す」立場ではなく「行政機関が児童・生徒に配布したい図書に対する記述のあり方を強く示唆する」とする検定を行うと国定教科書の制度に近づくと考えられる。
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学校教育法施行規則によって、初等教育の課程(小学校の課程、特別支援学校の小学部の課程)において、英語が必須化されたときを踏まえて、日本全国において共通教材を使用することが検討されている。

文部科学省が、全国共通教材英語ノート試作板を公表し、心のノートのような副読本としての扱いになるのかどうかは。未定である。公立の小学校・公立の特別支援学校においては、英語ノートを使用することが、文部科学省から都道府県および市町村の教育委員会を通じて、強く指導される可能性が高い。

2009年04月24日

氷河期理論の起源

ヨーロッパの山岳地帯に住む人々にとって、過去には氷河がより広がっていたというのは一般的な知識であり(Imbrie and Imbrie 25ページには木コリがスイスのグリムゼル氷河の過去の広がりについて Jean de Charpentier に語ったことが引用されている)、誰かがこのアイデアを作り出した訳ではない[1]。J. Charpentier はこの説を支持する証拠をまとめあげた。1836年には理論をルイ・アガシーに納得させ、アガシーは、Étude sur les glaciers を1840年に出版した。

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この最初の段階で研究されたのは現在の氷河期の中で過去数十万年に起こった氷期についてであり、更に過去の氷河期の存在については想像されもしなかった。

氷期の証拠は様々な形で得られる。岩が磨かれたり削られた跡(擦痕)やそのような浸食作用をうけてきた独特の形状の岩(羊背岩など)、氷河の末端や縁辺に堆積した角礫(モレーン)、独特の氷河地形(ドラムリン、氷河谷など)、「ティル」や「ティライト」等の氷河性堆積物である。しかし繰り返し起こる氷河作用が、それ以前の氷河作用の地質学的証拠を変形・消去することで解釈を難しくしており、現在の理論に到達するまでには時間がかかった。

近年では氷床コアや海底堆積物コアの解析により、氷期間氷期の過去数百万年を明らかにすることが可能になっている。
過去地球上では、少なくとも4回の大きな氷河期があった。

24億年前から21億年前頃の原生代初期に最も古い氷河期(ヒューロニアン氷期 Huronian glaciation)があったことが仮説として考えられている。

証拠が残っているもので一番古いのは(原生代末期)の7億5千万年前からの氷河期(スターティアン氷期 Sturtian glaciation(?7億年前)およびマリノア氷期 Marinoan glaciation(?6.4億年前))で、過去10億年のなかでおそらくもっとも厳しいものとされている。氷が赤道まで覆いつくしスノーボールアースを作り出したと言われている。この氷河期の終結が引続き起きたカンブリア爆発の原因になったと言われているが、この説はまだ新しく現在も論争の的である。

古生代には、4億6千万年前から4億3千万年前にかけて小さな氷河期(アンデス−サハラ氷期 Andean-Saharan glaciation)があり、同じく古生代の3億6千万年前から2億6千万年前にかけてにも氷河の拡大期(カルー氷期 Karoo Ice Age)があり、このときには生物の大量絶滅が起きている。

現在の氷河期は、4000万年前の南極の氷床の成長により始まり、300万年前から起きた北半球での氷床の発達とともに規模が拡大した。更新世に向かうにつれて更に激しくなり、その頃から氷床の拡大と後退の繰り返しによる4万年と10万年の周期が世界中で見られるようになった。最後の氷期(最終氷期)は約1万年前に終った。

2009年04月06日

トランペット

トランペット(英:Trumpet/伊:Tromba…トロンバ/独:Trompete…トロンペーテ)は、金管楽器の一種。略称は「Tp」「Trp」「ラッパ」「ペット」など。

管の全長に対して円筒部分の割合が大きく、多くは長円状に巻かれ、その中ほどに3つ(稀に4つ)のピストンまたはロータリー式のバルブを備える。この楽器の調性には様々なものが存在するが、最も一般的なのは変ロ調(B♭管)とハ調(C管)である。ハ調を除き、移調楽器である。3つまたは4つのピストンまたはロータリーと、唇を緩ませたり引き締めたりすること、息のスピードで音を変え、演奏する。

管長による分類 [編集]
現在のトランペットはB♭管が標準である(管長約147cm)。これよりも短いものをショートトランペットとも呼び、約65cmのC管迄が一般的である。

短い方からのC管、B♭管、A管については、ピッコロトランペットと呼ばれる。大抵は、一台のトランペットにオプションパーツの組み合わせで調子が変えられるようになっている。
長いものは、アルトトランペット(管長2m前後)やバストランペット(管長3m)と呼ばれる。
ショートトランペットのE♭管をソプラノトランペットと呼ぶこともあるが、もっぱら調子で呼ばれている。
演奏できる音域が狭くなるので、第4バルブを備えて補うモデルもある。

標準のB♭管の長さのものを二重巻きにして、サイズを小さくしたものをポケットトランペットと呼ぶ。コンパクトで携帯に便利だが、吹奏に多少の抵抗感がある。
標準のB♭管は音程がもっとも安定しているので、初心者(特に楽器自体初めての人)はB♭管から始めることが推奨されている。ただしB♭管であっても、指使いだけで正確な音程が保証されるものではない。
ショートトランペットは姿をB♭管に似せると、サイズが小さくなるので、第一バルブからベルまでをB♭管に合わせた形をロングモデルとも呼ぶ。

機構による分類 [編集]
現代のトランペットはそのバルブの構造によって、ピストン・トランペット、ロータリー・トランペット等に分類できる。

ピストン・トランペット [編集]
ピストン・バルブを使って管長を変化させる。現在、日本、アメリカ、フランスなどで最も一般的に使用される。一般に「トランペット」と言ってイメージされるのが、このピストン・トランペット(B♭管)である。支柱が無いものから2本あるものまであり、この支柱が多いほど音にまとまりがあるとされている。音が目立つので良くソロに用いられる。ロータリー・バルブに比べて故障しにくいが、ピアニッシモでも音色が目立つので伴奏で使いにくい。ジャズにはこれが用いられる。

バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

2009年03月22日

キャラのかぶり

キャラのかぶりとは、比較的少数の社会集団の中で、ある個人の社会的役割または性格類型(「キャラ」。キャラクターの略)が別の個人と重複している状態を指す口語的表現。

単にその状態を指摘するだけの場合もあるが、特に本人同士や集団全体が、それによりささやかな不利益を被っている場合を指すことが多い。漫画・アニメ・コント等の、キャラクターを中心とした現代若者文化に特有の表現である。小社会集団は数人から数十人程度であり、関係としては遊び仲間、学校の教室の生徒、同僚などの場合が多い。ここでは、ある個人が、漫画の中でしばしば見られるように、小社会集団の中で「特定の固定された役割を演じているはず」という前提がある。

まず、数人のグループ内に天然ボケが2人居る、といった無害な状態を指すだけの場合がある。似た性格の人間がその場に居合わせるのは、現実の世界では当たり前である。だが、漫画やコントなどでは、個々のキャラクターの持ち味を引き出す為に、重複するような性格類型は使われない(しかし、「花さか天使テンテンくん」のテンテンとデモモの様にあえてキャラをかぶらせてギャグにする事も少数だが見られる)。そのため、漫画やコント慣れした若者は奇異な印象があると感じて「キャラがかぶる」と表現する。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

また、家族の中で新しい子供が生まれると、親の愛や関心がその子に移り、兄や姉は「可愛い子供」という自分が演じて来たキャラ(自分が独占していた地位)が奪われたと感じる。あるいは自他共に認める「職場の花」(場合によっては紅一点、もしくはそれに近い状態)である若いOLが、新入女性社員にその地位を奪われたと感じる事もある。これらの場合は、本人に不満が発生する。また、「船頭多くして船山に上る」という言葉は、指導的立場の人間が複数いることで方針が混乱することを指す。この場合は、集団が混乱することになる。

キャラがかぶることに問題が発生している場合は、本人たちのいずれかが別のキャラを選ぶ(キャラを譲る)ことで解決する。

2009年03月07日

プロビデンス (軽巡洋艦)

プロビデンス (USS Providence, CL-82/CLG-6/CG-6) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の14番艦。後にミサイル巡洋艦へ改装され、プロビデンス級ミサイル巡洋艦の1番艦となる。艦名はロードアイランド州プロビデンスに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴
プロビデンスは1943年7月27日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社で起工し、1944年12月28日にメアリー・ロバーツ夫人によって進水、1945年5月15日にW・B・ジャクソン艦長の指揮下就役した。1945年6月13日にボストンを出航、グアンタナモ湾で整調を完了する。9月4日にニューポートに帰還し、10月6日まで巡洋艦及び空母乗組員の訓練を行う。

プロビデンスは11月にボストンを出航し、ギリシャのピレウスを12月に、戦艦ミズーリ(USS Missouri, BB-63)と共にイスタンブールを1946年4月5日から9日まで、5月にエジプトのアレキサンドリアを訪問した。6月16日に地中海を離れ、25日にフィラデルフィアに帰還する。10月にデラウェア岬を離れグアンタナモ湾およびバージニア州ノーフォークで訓練を行い、1947年2月3日にハンプトン・ローズを出航、地中海に向かう。地中海での訓練及び港湾訪問の後、5月にギリシャのアテネを出港、同月末にボストンに帰還した。

11月にロードアイランド州ニューポートを出港し、1947年11月20日から1948年3月2日まで地中海で作戦活動を行う。12月にはナポリ、1月にタラント、2月にはトリエステとヴェネツィアを訪問している。

1948年3月にニューポートに帰還し、9月に出港、地中海で第6艦隊に合流し1948年9月23日から1949年1月14日まで展開した。その間10月にはテッサロニキ、11月にマルセイユ、12月にトリエステとベニス、1月にオランを訪問、1月後半にニューポートに帰還した。プロビデンスは1949年6月14日にボストンで退役し、大西洋予備役艦隊入りする。

1957年5月23日に CLG-6 (ミサイル巡洋艦)に艦種変更され、6月にボストンでプロビデンス級ミサイル巡洋艦としての転換作業を開始する。作業では新型ミサイル機材、指揮艦としての施設及び核兵器運用能力が装備され、1959年9月17日にケネス・L・ヴェス艦長の指揮下再就役する。ミサイル巡洋艦に改装されたプロビデンスの1番砲塔はそのまま残されたが、2番砲塔は連装38口径5インチ砲塔と換装された。艦後部の装備はミサイル発射装置のため大きく変更され、上部構造も完全に新造された。

グアンタナモ湾での整調後プロビデンスは1960年7月29日に新たな母港のカリフォルニア州ロングビーチに到着した。第7艦隊での6ヶ月間の任務の後、1961年3月31日にロングビーチに帰還する。西海岸で演習を行った後、1962年5月に日本の横須賀に到着、オクラホマシティ(USS Oklahoma City, CLG-5)と交替して第7艦隊旗艦となる。

1962年と63年は第7艦隊と共に演習を行い、1964年1月にはサイゴンへ3日間の訪問を行う。プロビデンスは南ベトナム政府及びアメリカの高官の訪問を受け、人道支援団体の活動に対して38トンの資材を送り届けた。1964年7月に横須賀を出航、8月にロングビーチに帰還する。10月には東太平洋で訓練を開始する。

1965年1月から6月までかけて新型の通信機材を装備し、同年の残りは西海岸で第1艦隊と共に演習を行い、様々な港を訪問した。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

1966年11月12日にウェストパックに参加、12月1日に横須賀で再びオクラホマシティと交替して第7艦隊旗艦となる。1967年4月1日にはベトナムへの大規模艦砲射撃に参加する。5月25日には軍事境界線沖で敵砲台と砲撃戦を行う。7月には上陸作戦の砲撃支援を行い、10月10日にはダナン南方の敵補給所を砲撃した。

1968年は6月と12月を除いて毎月ベトナム沖での支援艦砲射撃を行った。1968年2月、テト攻勢の間にプロビデンスはユエの敵拠点に効果的な打撃を与えた。1969年には西海岸沖で第1艦隊と共に作戦活動に従事した。

2009年02月18日

M3ハーフトラック

M3ハーフトラックは、第二次世界大戦中のアメリカ軍の兵員輸送用装甲半装軌車である。

本項では兄弟車輌であるM2、および廉価版のM5/M9についても記述する。
アメリカは第一次世界大戦中よりハーフトラックに注目し、民間を中心に研究開発が行われていた。第二次世界大戦が始まりアメリカ自身の参戦と共に本格的な軍用ハーフトラックの開発が行われる事となった。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

最初に騎兵科の要求により、装輪式の装甲車であるM3スカウトカー(偵察車)より路外性能に優れた装甲ハーフトラックであるT7が試作された。これはM3にフランス式のティムケン装軌車台組立部品を組みこんだもので、履帯は鋼ケーブル製の基材を包みこんだ硬質ゴム製であった。

続いて今度は砲兵科の要求で、機甲師団所属の砲兵の野戦砲牽引車輌として、より強力なホワイト160AXエンジンを装備したT14が試作された。これは歩兵部隊が機甲師団に随伴するための車輌としても有効であると判断され、車体後部を延長し、歩兵一個分隊を輸送できるロングボディのT8が試作された。そして前者はM2、後者はM3ハーフトラックとして採用された。

M2ハーフトラックは1940年からオートカー社で生産が開始されたが、大量配備のためM2、M3ともにホワイト・モーター社とダイヤモンドTモーター社でも量産された。装甲兵員輸送車型をベースに、対戦車自走砲や対空自走砲、自走迫撃砲などのバリエーションがあり、4000両近くが生産された。

アメリカ軍の他に、レンドリース法で装甲材質の劣るM2の廉価版であるM9(M2のようなショートボディではなく車内レイアウトだけがM3、M5と異なる)、M3の廉価版であるM5(外見上、直線的になった前輪のフェンダーで識別できる)がイギリスやソ連などの連合国に供給され、戦後も退役したM3を含め友好国に送られた。特にイスラエル国防軍ではエンジンをディーゼルに交換するなどの改良を加えつつ長きに渡って使い続けられ、全装軌式のM113装甲兵員輸送車が配備された1970年代以降においても、国防予算を戦車に回したため多くが後方任務に回されながらも現役であった。近年になって強力な装甲を持つアチザリットなどの新型兵員輸送車が登場し、M113が後方任務に回されるようになってようやく完全に引退した。

本車は装甲トラックの後半を装軌式にしただけの物ではあるが、比較的強力なエンジンを持ち前輪も駆動することから、より高価で複雑なドイツ式ハーフトラックよりも実用性と機動性で勝り、路上でも72km/hの最大速度を発揮した。実戦参加は北アフリカ上陸を目的とした1942年のトーチ作戦からであるが、オープントップであるため空中で炸裂する榴弾の弾片に対し無防備であり、また装甲がドイツ国防軍の7.92mm弾に対してさえ不十分である(徹甲弾に対して200ヤード=183m離れないと耐えられない)こと、また荷台天蓋が完全に吹きさらしで「あおり」がないため、敵歩兵が容易に手榴弾を放り込めることがわかったが、これらの欠点は最後まで改良されることは無かった。

形式
M2/M2A1
105mm榴弾砲の牽引用に開発された。他の型よりキャビンが短いのが特徴。またキャビン外側に牽引砲の弾薬収納用ドアが設けられた。乗員10名。初期型はキャビン全周に機銃用の移動レールが付いていたが、後にリングマウントに変更したA1型に移行した。
M3/M3A1
M2をベースに、歩兵輸送用にキャビン延長と弾薬箱廃止による容積増加が図られ、乗員は13名に増えている。機銃用の移動レールは無くキャビン中央にマウント支柱が設けられた。後にやはり機銃リングマウントを増設したA1型に移行した。
M3A2
M2とM3の車体共用を狙った試作車。制式採用されながら結局生産されなかったが、本車で試作されたキャビン外部の地雷ラックや装備品ラックは他の生産型に追加導入された。
M5/M5A1
M3のレンドリース用簡易生産型。装甲をM3の表面硬化装甲のリベット接合構造から均質圧延鋼板の溶接構造に変更し、装甲厚増加(それでも耐弾性は大きく低下した)に伴う重量増加によりエンジンや足回りの強化が行われた。後端が丸くなったキャビンと平面的になった前輪フェンダーが特徴。やはりリングマウントを増設したA1型がある。
M9/M9A1
M2のレンドリース用簡易生産型。車体はM5と共通となり、キャビン内部以外は外観上の差異は見られない。生産型は全てリングマウントを増設したA1型である。
М3A1自走75mmカノン砲(T30)
フランス製のM1897 75mm野砲を搭載した自走砲。
M15対空自走砲
37mm機関砲と12.7mm機関砲を搭載した対空自走砲。
M16対空自走砲
12.7mm機関銃の4連装銃架を搭載した対空自走砲。

2009年01月28日

今山の戦い

今山の戦い(いまやまのたたかい)は元亀元年4月(1570年3月)から始まった大友宗麟軍と龍造寺隆信軍との戦いである。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦を指して「今山合戦」としている場合もある。
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今山の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1570年3月
場所:
結果:龍造寺軍の勝利
交戦勢力
大友軍 龍造寺軍
指揮官
大友宗麟
大友親貞 龍造寺隆信
鍋島直茂
戦力
60,000 5,000
損害
2,000以上 -

発端
元亀元年(1570年)3月、大友宗麟は当時、肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために、弟の大友親貞を総大将とした60000の大軍を龍造寺領に送り込んだ。対する龍造寺隆信は5000の兵力しか集められず、佐嘉(のちの佐賀)城に立て籠もるしかなかった。このときの大友軍が如何に大軍であったかということを、『肥陽軍記』では次のように記している。

「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」

戦いの経緯
大友軍は圧倒的兵力を背景にして、遮二無二に佐嘉城を攻め立てた。しかし龍造寺軍の士気は高く、大友軍は佐嘉城を落とすことはできなかった。しかし龍造寺軍には援軍の見込みが無く、このままいけば落城は必至の状況であった。

一方、筑後の高良山に布陣していた大友宗麟は、いつまでたっても勝報が届かないことに業を煮やし、援兵を送って親貞に総攻撃命令を下した。親貞は、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定した。ところが、総攻撃開始予定日の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。

これを知った龍造寺氏の武将・鍋島直茂(当時の名は信生)は、今山の敵本陣に対して夜襲をかけることを隆信に進言する。隆信もこれを認め、直茂をはじめとする奇襲部隊は城を抜け出し、今山の敵本陣の背後に近づいた。そして8月20日早朝、今山の大友軍本陣は鍋島直茂率いる奇襲部隊に襲われ、総大将の大友親貞はこの乱戦の最中に討死してしまった。これにより大友親貞軍は総崩れとなり、今山の戦いは龍造寺軍の勝利に終わったのである。このとき、大友軍の死者は2000人以上に及んだという。

戦いにおける影響
この今山の戦いは局地戦であり、大友軍にとってはそこまでの敗北ではなかったとされる。実際大友本軍は健在で、この後龍造寺側から講和の申し入れがあり、それを受諾して撤退したのである。この後龍造寺隆信は、この今山の戦いで叛旗を翻した肥前国内の豪族を討伐して、その勢力を大きく拡大した。やがて大友宗麟や島津義久と並ぶ『九州三強』の一人にまで数えられるようになる。

布部山の戦い(ふべやまのたたかい)とは、1570年(元亀元年)に山中鹿介率いる尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利家との間に起こった戦いである。

戦いまでの経緯
布部山の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1570年
場所:布部山
結果:毛利軍の勝利、尼子再興軍出雲より撤兵
交戦勢力
毛利軍 尼子旧臣軍
指揮官
毛利輝元
吉川元春
小早川隆景 尼子勝久
山中幸盛
立原久綱
戦力
約1万3千 約6千800
損害
‐ ‐
1566年永禄9年11月28日に月山富田城が開城し、尼子家が滅びた後、尼子家家臣である山中鹿介・立原久綱達が尼子家再興を目指すため、1568年、京都・東福寺に逃れていた新宮党の尼子誠久の子である尼子勝久を還俗させ、擁立した。 翌年、但馬、隠岐を経て出雲に上陸した後、尼子再興の伝令を発すると、5日後には尼子勝久の元に尼子家旧家臣、3000の軍勢が集まった。

最初に新山城を陥落させ、出雲の旧領をほぼ制圧し、破竹の勢いで月山富田城に向かったが、守兵300であるにも関わらず天野隆重が守る難攻不落の険城をなかなか落とすことができなかった。隠岐為清の反乱等も重なり手をこまねいていた所へ、伊予・北九州へ出兵していた毛利家主力が戻り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景以下、13000の大軍は石見から出雲を目指した。これを知った尼子勢は毛利勢を食い止める為、末次城に尼子勝久を残して石見路から月山富田城に行く際に通る布部山で毛利を食い止める事とした。

戦い
尼子勢は布部山の2つしかない登り口(水谷口・中山口)に山中鹿介を大将とする総勢6800の兵を布陣し、万全の体制で毛利軍を待ち構えた。戦いは当初地の利に勝る尼子勢が優勢だったが、攻め落とすのが難しいと判断した吉川元春が住民に間道を教えてもらい、別働隊を率いて裏から布部山の頂上に登りそこから尼子軍の本陣を強襲したところ尼子勢は総崩れとなり本拠地真山城へと撤兵した。

その後も毛利軍の猛追もあり再興軍側の米原綱寛立て篭る高瀬城を攻めるも、毛利元就の容態が急変し一時出雲より撤兵する。これにより再興軍は一時末次城を攻める等するも、ほどなく吉川元春率いる吉川軍の攻撃を受け真山城が落城。海路を使い勝久は近臣により脱出、再興軍は出雲より駆逐された。


2009年01月20日

龍生派(りゅうせいは)

龍生派(りゅうせいは)は華道(いけばな)の流派のひとつ。現家元は、三代目となる吉村華泉(よしむらかせん)。

明治19年(1886)に、初代家元吉村華芸(かうん)が創流した。2006年で創流120周年を迎えている。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

その流派の名前は、初代家元の華芸の出身地が愛知県岡崎城で、その岡崎城の別名が「龍ケ城」だったことにちなむ。岡崎にて池坊を学んだ吉村華芸は東京に出て頭角を現すが、当時の池坊のいけばなを出生重視すぎると否定し、池坊を離れ、自己の流派を創流した。当時は「池坊龍生派」を名乗る。

変遷
流祖・吉村華芸は立華・生花のみを流派の花として活動したが、二代目吉村華丘(かきゅう)の代に瓶花挿花として自由花を取り入れ、表現のジャンルを拡げた。

活動しているジャンル
伝統に基づく「型」の中で表現する「古典華」(立華(りっか)・生花(せいか))と、作者の思いを「型」を離れて表現することのできる「自由花」の両方のジャンルにて活動していることがひとつの特徴と言える。「自由花」も、いわゆるテーブルサイズのいけばなだけでなく、建築物とのコラボレーションなど、インスタレーション的な展開も行っている。

その方法論
現家元・吉村華泉は、「ひと枝、ひと茎の植物が持っている個性を捉えて活かしていく」という考えを「植物の貌(かお)」と名付けて積極的に提唱し、龍生派のいけばなの根底を成すものとしている。

次代へ
1996年、創流110周年を迎えた折に、次代を担う役割として副家元職に吉村華洲(かしゅう)が就任。吉村華洲は、2004年には「縄文コンテンポラリーアート展」(船橋市飛ノ台史跡公園博物館)に出品、同年仙台メディアテークにて大規模な個展『リンゴの唄』を開催。2006年に越後妻有で開催された大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレの小白倉いけばな美術館に出品し、古民家へのインスタレーションを行った。建築家から転身した出自を感じさせる空間把握と、流派の方法論「植物の貌」に基づく植物の微細な表情を捉えての表現で、小品から大作まで幅広い創作を展開している。ジャズバンド渋さ知らズや舞踏集団大豆鼓ファーム、演劇団体風練ダンスなどとのコラボレーションでの舞台美術を手がけるなどの活動もある。